Pages

Wednesday, March 9, 2022

Vol.24 「長く黄色い道」歩み続けて本場に足跡…秋吉敏子の覚醒<下> - 読売新聞オンライン

 自ら率いるビッグバンドのアルバム「孤軍」(1974年)で、ジャズと日本文化の融合を打ち出し、米国でも注目された秋吉敏子(ピアノ)。そのアイデアはふってわいてきたものではない。

 バークリー音楽院を卒業し米国定住を決意した時期でもある1960年、「ロング・イエロー・ロード」という曲を作っている。今も必ずコンサートで演奏する、郷愁に彩られた彼女の代表曲だ。秋吉は言う。

 「故郷・満州(現中国東北部)の土けむりの道の思い出と、黄色人種の私がこれから遠く険しいジャズの道を歩む決意を重ねて作曲しました。自分のジャズ人生を象徴する曲だと思っています。演奏するたびに、『今も長く黄色い道を歩んでいるんだ』と、初心に引き戻してくれます」

 すでにこの頃から、日本人である自分ならではの“黄色いジャズ”は意識されていたように思える。彼女にとって、それをある程度形にすることができたのが、67年にニューヨークで開いたリサイタルで初演した「すみ絵」だった。自ら、「日本的な流れるような旋律と、ジャズ的なリズムをうまく融合できたと思います」と評する。そういった積み重ねの上に、和楽器を大胆に取り入れた「孤軍」がある。

  連載20回目 でも触れたが、日本文化とジャズの融合と言えば、65年、白木秀雄クインテットがベルリン・ジャズ・フェスティバルに出演した時に琴奏者と共演したり、67年に米国のニューポート・ジャズ・フェスティバルに招かれた原信夫とシャープス&フラッツが民謡の「ソーラン節」や雅楽の「越天楽」を披露したりしている。日本のジャズが海外に進出し始めた時には、意識せざるを得ないテーマだったと言えよう。まして、パイオニアとして米国で奮闘する秋吉には、より切実な課題だったはずだ。それを、ビッグバンドという武器を得て、明確に打ち出すことができたと言えよう。

 75年に入ると、クール・ジャズ・フェスティバル、モンタレー・ジャズ・フェスティバルといったジャズ祭に出演し、秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグ・バンドへの注目は高まる。この頃、秋吉は大作「ミナマタ」の作曲に取り組んでおり、この完成のために、米国の国立芸術基金の助成を得ることに成功した。秋吉の音楽の芸術性が認められつつあったことの証左だ。「ミナマタ」は、当時日本で大きな社会問題となっていた、熊本県水俣市周辺で発生した公害病をテーマに、3楽章から成る20分余りの組曲として完成した。

 「平和な村に化学工場が建ち一時の繁栄を手にするが、それは人をむしばむ病を生み、繁栄は荒廃・怒りへと変わっていく。そんな流れを音楽として表現しました。ここでも和楽器や和旋律を導入しましたが、それはこの曲のテーマに沿うものでした。冒頭に純朴さを表現するため、まだ子供だったMONDAY満ちる(秋吉の長女)の歌を入れ、終幕にはそれに呼応させ、怨念を象徴する能の謡を入れました。大きなテーマを設定し、それに合わせて細部の表現を組み立てていく。私の曲作りの方法論が確立された作品だと思います」

 もう一つ、彼女の作品に顕著な社会的視点については、こう語っている。

 「私は社会人として社会で起こることに関心がある。ジャーナリストなら文章で表現するのでしょうが、同じように私はそれを音楽で表現しようと思っています。確かに音楽家は世界を変えられない。だからといって私は沈黙したくはない。音楽を通し『私はこう考える。こうすればいいと願っている』ということを表明し、小さな波紋を投げかけることは、意味があると信じています」

 秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグ・バンドは76年11月、大曲「ミナマタ」を収録したアルバム「インサイツ」を出した。このアルバムも日米で高く評価され、米音楽界最大の栄誉とされるグラミー賞の候補にもなった。

Adblock test (Why?)


からの記事と詳細 ( Vol.24 「長く黄色い道」歩み続けて本場に足跡…秋吉敏子の覚醒<下> - 読売新聞オンライン )
https://ift.tt/XB9fWeM

No comments:

Post a Comment