
五輪でのソフトボール競技は2008年の北京大会を最後に正式種目から除外されていたが、2020年東京五輪で追加種目としての採用が決まり、強化を進めてきた。ソフトボール・マガジンWEBでは、3大会ぶりとなる東京五輪で金メダル獲得を目指す15名の選手たちを、順々に紹介していく。
藤田倭(ビックカメラ高崎/投手) 我妻悠香(ビックカメラ高崎/捕手) 互いの力を引き出し合って(1)
上野由岐子と日本の二枚看板を担う藤田倭。そして、日本代表の扇の要を務める我妻悠香。2014年に初めてコンビを組んだ二人は、たくさんの失敗を乗り越えて、 バッテリーとしての階段を一つ一つ駆け上がってきた。そして今夏、自分たちにしか見せられないピッチングを追求しながら、大舞台へと挑む。(取材は4月28日)
藤田の移籍で同じチームに 「私たちはまだ強くなれる」
──ビックカメラ高崎でバッテリーを組むようになって変わったこと、新しく発見したことはありますか。 藤田 特別変わったことはありません。でも一緒にいる時間が増えたので、いろいろな面が見えてくるだろうなと思っています。いいところも悪いところも、これからもっと知っていくんだと思います。ただ、一緒にいるといっても、我妻はほかのピッチャーの球も受けなければならないし、私にだけ時間を割けるわけではありません。日本代表のときよりも限られた時間の中で、 どうすればお互いの良さを引き出していくことができるか模索中です。まだ まだこれから、二人で強くなっていけると思って練習しています。 我妻 代表のときは大会に合わせていくことが大事でしたし、活動する期間が短い分、どちらかというといい状態の倭さんを見ることのほうが多かったのですが、毎日一緒に練習する今は、調子がいいときばかりではないことも感じています。それと、国際試合と違って、倭さんのことを知っている相手と対戦する難しさも痛感しているので、 すごくいい勉強になっています。 ──前半戦では先発、中継ぎ、抑えと、いろいろな形で登板しました。 藤田 私自身先発にこだわりがなくて、オールマイティーにこなせるところが強みだと思っています。調子が上がってくれば完投もあると思いますし、今は与えられたところをしっかり投げ切ろうと、そんな思いでやっています。 我妻 チームで中心となって投げているのが濱村(ゆかり)、倭さん、勝股(美咲)の3人ですが(編集部注:4月28日の取材時は、上野由岐子はケガで離脱中)、土日の連戦をこなすうえで相手との相性やそれぞれのコ ンディションを見ながらリーグ戦に臨んでいる状況です。ただ、先発できるピッチャーが3人そろっているのはウチのチームの強みですし、どこを任されてもその役割を果たせるように、それぞれのピッチャーがしっかり準備していると思います。 ──上野選手の離脱(右ワキ腹の肉離 れ)はどうとらえていますか。 藤田 もちろんケガはプラスではないけど、私自身の登板機会が増えたことはチャンスだと思っています。我妻ともしっかり合わせていくことができるので、この時間をすごく大事にしています。ウエさん自体は離脱後も変わらず声を掛けてくださるので、ありがたいですね。 我妻 上野さんがいない中でどうやって戦っていくか、勝利を重ねていけるかということを常に考えて練習しています。早く戻ってきてくださることが一番ですけど、こういった状況の中でもピッチャー一人ひとりをどう生かしていくかということを考えて練習して いますね。 意見を交わすことで 絆を深めた代表での日々 ──過去のインタビューで、2016年の世界選手権がお互いを理解し合うきっかけになったとおっしゃっていました。意見を交わすことで信頼関係を築いていったと。 藤田 あれは私が一方的に言っていたらしいです。今振り返ると、若かったなと思います(苦笑)。私と我妻は5歳違いなんですけど、当時我妻は21歳で初めての代表。経験もない我妻にきつく言い過ぎてしまった部分があった。いっぱいいっぱいだったんだよね? 我妻 初めて捕るキャッチャーに、この人は何でこんなに怒ってるんだろうって思っていましたね(笑)。当時の私は、自分のチームのピッチャーの球を捕るだけでも必死だったので。 ──チームでも、正捕手になってまだ1、2年目でした。 藤田 今考えると、大変だったろうなと思う部分もありますけど、試合に出ているんだから最低限はやってくれよと思っていました。 我妻 怒られましたね(苦笑)。 藤田 怒ってはないけど、ピリピリはしていたよね。大会直前にウエさんの離脱が発表されて焦ってたんだと思う。 我妻 今だから言えますけど、21歳の私は世界選手権がどれくらすごい大会なのか知らなかったんです。今ならどれだけ権威のある大会なのか分かりますし、上野さんが離脱したことでどれだけチームがピンチに陥っているのかってことも分かるけど、当時の私は何も分かっていなかった。主力の選手からしたら、21歳のキャッチャーが大会中に泣いたり、落ち込んだりしていたら腹立つよなって思います ──そこからどのようにコミュニケー ションを取っていったんですか。 藤田 遠征先で毎回同部屋になって、話したり、行動をともにしながら。 ──絆が深まった出来事は? 我妻 私は19年の日米対抗が印象に残っています。そのときも上野さんがケガ(下顎骨骨折)でチームを離れていたんです。仙台で2試合して1勝1 敗。そこから移動して東京ドームでの最終戦に臨んだんですけど、寝ずにビデオを見て研究したんです。あれはベストピッチでしたよね! ──ちなみに、その前年の世界選手権の準決勝は3対4(8回タイブレーク) で敗れながらも、アメリカを本気にさせることができたと手応えを感じていました。 我妻 その世界選手権での反省を踏まえての19年の日米対抗でした。世界選手権でいい試合はできたけど、負けは負け。勝つために足りなかったところを修正できたからこそ、19年の勝利につながったと思っています。たくさん失敗してやっと勝てたという思いがあったので印象に残っているのかもしれません。覚えてます? 藤田 えっ、覚えてない。 我妻 えっ、マジで!? 二人で見てから試合に入ったほうがいいって、倭さんから言ってきたんですよ。 藤田 もちろん抑えたことはうれしかったし覚えているけど、私は世界選手権のほうが記憶にあるんだよね。あの日々が濃かったからかな。我妻って普段はさらっとしていてクールなんだけど、あのときはいつもの100倍く らい声を掛けてくれたんだよね。そのときに、私でもアメリカに勝てるって言ってくれたんだけど、覚えてる? 我妻 ……。 藤田 ほら、お互い様じゃん! 試合前のピッチング練習のときに言われたんだけど、単純な私は「じゃあ頑張ろう」ってなった。試合中も声を出して、本当に細かく指示してくれた。 ──普段は、ガンガン声を出していくタイプではない? 藤田 私は、我妻のことを結構クールだなと思って見ています。太陽誘電では佐藤(みなみ)さんに捕ってもらっていて、我妻に代わったときにすごくギャップを感じたんです。佐藤さんは気持ちのアップダウンがなくて、私のことをいつも褒めてくれていた。でも、 我妻は捕っていても首をかしげるんですよ(苦笑)。私自身の調子が良くないので、その気持ちも分からなくはないんですけどね。タイプは違うなと思います。佐藤さんにはこれまで私の良さをたくさん引き出してもらったし、今は我妻に私のいいところを引き出してもらっているなと感じます。我妻は口数は少ないけど、内に秘めたものを持っている選手です。(つづく)
からの記事と詳細 ( 東京五輪ソフト代表の藤田倭×我妻悠香対談(1)「ソフトボールは技術だけではない。私は最後まで我妻のサインを信じる」(BBM Sports) - Yahoo!ニュース )
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