中国・南京市から国際小包が届いた。送ってくれたのは、南京師範大学の林敏潔教授だ。小さな段ボール箱を開けると、「外科用マスク」と書かれた袋があふれるくらい詰め込まれていて、私は思わず笑ってしまった。
現在、大学の東方センター長も務める林さんは、日本の東京学芸大学を卒業している。その後、慶應義塾大学の大学院を出て博士号を取得、もちろん日本語もごく自然に話せる。2年ほど前、私は南京師範大学を訪れる機会があり、現代日中比較文学の専門家である彼女と知り合い、その後、研究のために来日したときにはいっしょに食事をするなど、友だちづき合いをしているのである。正確な年齢をきいたことはないが、おそらくだいたい同世代ではないだろうか。具体的な家族構成なども話さないが、中学生の甥の話ばかりするところを見ると、自分の子どもはいないのではないか。とにかく全体に、“仕事をがんばりながらも生活もそれなりに楽しくしたいオンナ”という感じで、いわゆるウマが合うのだ。

その彼女から、なぜマスクが送られてきたのか。それにはわけがある。日本の現代文化を研究の対象にしている林さんは日常的に日本のニュースを見て、新型コロナウイルスの感染状況を非常に心配しているのだ。ちょうど一年前は、彼女の住む南京市もロックダウンされており、私はSNSで励ましのメッセージなどを送っていた。その後、南京市の感染は収束し、いまは外を歩くときはマスクをはずし、スーパーや飲食店などの屋内に入るときだけマスクをつける、という生活なのだそうだ。
私は中国語を習っているので、SNSではときどき中国語でメッセージを送るのだが、林さんは教師らしさを見せてその文面を添削してくれる。だから私はちょっとふざけて、彼女のことを“林老師(林先生)”と呼ぶこともある。
2月にはめずらしく“林老師”からメッセージではなく、電話がかかってきた。「東京はだいじょうぶなの? 感染者が何百人、千人といるじゃない? 心配してます。あなた、ワクチン受けた?」。ちょっとたたみかけるような先生っぽい口調もなつかしい。「だいじょうぶ、感染してないから。でもワクチンはまだですよ」と答えると、「ええーっ、なぜ!」と驚いている。「だってまだ日本ではワクチン接種が始まってないから(注・当時)」という私の言葉に、林老師は「それはダメ! あなた、病院で働いてるんでしょう! ダメよ」と無理なことを言ってきた。そして、「私はあなたにワクチンを早く受けてほしい。そうだ、私がもし病院でワクチンを手に入れられたら、国際郵便であなたに送れないかな?」と続けるではないか。
「ワクチンを郵便で送る」というその発想に「すごいな」と思わず笑いながら、ちょっと考えた。中国で使っているのは、日本とは違う「不活化ワクチン」という種類のもので、これだと保管は摂氏2度から8度、つまりふつうの冷蔵庫でよいと言われている。「いまは冬だから運搬中も高温にはならないはずだし、もしワクチンの入ったバイアル瓶をポンと封筒に入れて国際郵便で発送したら、そのまま届いてしまうかもしれない(実際にはX線検査などで怪しまれてはねられるのだろうが)。
「ありがたいけど、無理だと思う」と伝えると、「どうして? 中国のワクチンはイヤだから?」と彼女はちょっと悲しそうな声で言った。私はあわてて、「いや、そういうことじゃないですよ。実は年末に、日本で中国からのワクチンを打った人たちがいる、というニュースが流れたんですよ。でもそれってたしか法律違反らしくて」と答えたのだが、なんの法律に違反しているかもそのときはわからなかったので、あやふやな説明になった。
彼女は「そうか……ワクチンは無理ですか」とガッカリしたような声になり、「じゃ、せめて外科用マスクを送るね。私、日本でもマスク買ったことあるけど、いま中国で多くの人が使ってる外科用マスクの方が厚手でしっかりしてると思う。どこでも簡単に手に入るから送ります」と言ったのだ。私は「中国のワクチンなんて使いたくない」と拒絶したと思われたのでは、と心配だったので、その申し出にホッとして「じゃお願い」と言った。そしてそれから1週間ほどして、マスクが詰まった箱が送られてきたのだった。
それからちょっと調べると、中国のワクチンは日本にとっては「未承認ワクチン」となるので、それを販売、授与することは「医薬品医療機器等法」違反となるらしい。しかし、今年の1月7日に厚生労働省が出した通達を読んでも、もし私が林さんから郵送されたワクチンを接種した場合、それも法律違反となるのかがよくわからない。ここにその文面を引用したりはしないが、要は「当該ワクチンが医薬品医療機器等法に違反して輸入されておらず」「未承認ワクチンを接種を希望する者が所有していた」という場合には、接種で健康被害が生じても厚労省は責任を取らないが、接種じたいはどうも違法ではないようなのだ。
――もしかすると、業者から買ったのではなくて、友人が適切なルートで手に入れて送ってくれて私のものになったワクチンを、自分で注射器に移して筋注するのは、ギリギリ違法ではないのかも……。
そんな想像もしてみたが、もちろん法的に正しいかどうかはわからない。それに、いくらなんでもそんなカジュアルにワクチン接種をしてよいのかと言われたら、やっぱりちょっとためらってしまう。
と思ってたら、アメリカ在住のミュージシャン・矢野顕子さんが、とてもカジュアルなワクチン接種体験についてツイートしてた。
一回目のワクチン終了。うちの近くの,アメリカで一番古い薬局で、馴染みのファーマシストがサクッとやってくれました。待合室(接種後15分間、待機)にいた4人の人たちと28日後、ここ同じ場所同じ時刻に会いましょうねって。即席ワクチン仲間ができました?pic.twitter.com/P7j39lqe9d
— 矢野顕子 Akiko Yano (@Yano_Akiko)March 3, 2021
そうか、アメリカではこうやって薬局で薬剤師が接種することもあるのか。たしかに静脈注射とは違い筋肉注射なので、日本でも看護師による接種が可能だが、インフルエンザワクチン(皮下注射)と同じく、問診をし接種の諾否を決めるのは医師だ。アメリカはおそらく州にもよるのだろうが、そのすべての手順を薬剤師が行えるところもあるのだ。
そして、日本ではコロナ専門病棟に従事するのではない一般の医療従事者、さらには一般市民への接種がいつになるか、見通しがさっぱり立たない。私がいる民間診療所でも、早々に接種の希望をきくアンケートがあったり、実際に接種する場合の簡単な段取りの打ち合わせをしたりしたが、肝心のワクチンがいつ来るのかもわからないので、そのうちワクチンの話題も出なくなってきた。
産業医をしているある区役所はもっとたいへんで、区民の接種のために区立体育館を使う、いや学校の方がいい、などと議論したり一日、何人くらいの接種が可能かとシミュレーションを行ったりして、それだけで職員は疲弊しているようだ。そして同じように、どんなに準備をしても、それがいつ始まるものやら目途が立たないので、結局は「これ以上、話しても仕方ないか」ということになっている。
診療所のナースたちとは、「なんだかもう、ワクチン打ったような気分だねえ」「なんでも気持ちが大切ですよ! これで免疫もできたかも」などとちょっと自虐的な冗談を言い合っているが、本当にこのまま夏になっても秋になっても「いよいよ間もなく」と言われるばかりで接種が始まらない、ということがあっても驚かない。
しかし、もしこんな話を日本のコロナの感染状況、そして友人である私の健康を真剣に心配している中国の林さんに伝えたら、「なんてことを言うの! ダメです!」と怒られるかもしれない。彼女は「コロナは絶対にかかっちゃいけない。封じ込めるべき」と真剣に考えており、おそらくそれは中国の多くの人の気持ちでもあるのだろう。そういえば林さんは、「明日、会議で南京から新幹線で北京に行くの。だから今日、南京でPCR検査を受けてきて、その陰性証明書を見せて明日、新幹線に乗って、北京に着いたらまたPCR検査を受ける」とも話していた。結果が出るまで北京のホテルで待機して、陰性だったら晴れて会議の会場に行けるのだそうだ。
さらに北京滞在中は、最近、感染者が出ていないことがわかっているグリーンゾーンにしか足を踏み入れられない。スマホのGPSで足取りがわかるので、もしグリーンゾーン以外に入ったとなれば、南京に戻ってから隔離生活を送らなければならないそうだ。「日本は自由を大切にするから、そんなことイヤでしょう? でも、感染が拡大するのはもっとイヤじゃない? いまはこの方法しかない、と私は思ってる。だから日本に住むあなたには、気をつけてほしいの。」林さんはそう言って電話を切った。
中国と日本で、同じような時代を仕事しながら生きてきたオンナである、林さんと私。どことなく似た者どうしだと勝手に思っていたけれど、新型コロナウイルス感染症に対する真剣さにおいては、ちょっと差があるかもしれない。そして、これは中国と日本という国の、この感染症への向き合い方の差とも重なるのではないか。
――今度、電話来たときに「まだワクチンしてない」なんて言ったら、ほんとに郵便でワクチンのバイアル瓶送ってきちゃうかも。
ありがたいような情けないような気持ちになりながら、「マスクのお礼に何を送ろうかな。やっぱりお菓子かな」などとすぐにのんきなことを考えてしまう私なのであった。
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